練習と試合

2005年6月23日
少しだけ精神的に余裕ができたので
学会までの1ヶ月ほどの日記を読み返してみました
・・・切羽詰ってましたね、自分(汗)

いくら背伸びをしてみても、相変わらずです
やっぱり本番に至る前に、蓄積は大事です
先生方に出す礼状を書きながら、色々考えてしまいました





個人的には、いろんなことを、スポーツから学んでいるので
自分のやることを、スポーツに置き換える傾向があるのです
それで筋が通るときもあれば、通らぬときもありますけど

今回思ったことは、練習と試合についてでした

ヨーロッパのレースで経験をつんだ先輩から聞いた言葉で
「試合に勝る練習なし」というのがありました
1つの試合の経験は、練習での蓄積を大きく上回るという主旨でした
あちらの方では一般的な考え方(当時)らしいです

実際に、試合1回の運動量は凄まじいし
試合に出てはじめて体験できる、駆け引きやスキルもあります
試合期の連戦で、通常の練習を遥かに上回る力が身につくのは確かです
集中して臨む1の試合は、慢性的な100の練習を上回るでしょう

でも、それは
試合が上で練習が下というような
本末転倒な考え方と同一ではありません

少し試合そのものに関して考えてみれば
そのことが、容易に想像できると思います

試合で何かを得るためには、いくつかの条件があります
標準記録や参加資格といった出場条件が前提としてあり
更に、出場者の中で競い合うだけの実践力が必要とされます
それらを満たして、試合を全うしたときに、多くのものを得るはずです

条件を満たすために、そして実践力を得るために
選手は常に、練習をするわけです
強い選手は、試合以外のたいていの時間を練習に費やします
そして、その姿勢がない人間は、たとえ出場したとしても競うことはできません

試合は結果が出るけれど、練習は(最終的な)結果が出ないもので
手段として練習をする以上、試合の結果を信じて練習を続けるしかなく
そのための目的を明確にすることが、トレーニング理論の前提です

そういうことは、自転車選手時代に、嫌というほど味わって
資格を得るのに2年、競うのに3年を費やしました
それでも、自分が求めた水準の競技力には、ついに達しませんでした





今回の学会を、この話にあてはめてみます

◇学会の参加という基準はどうかというと

大学院の博士後期課程に在籍し
知己の先生に熱心なご指導をいただき
発表内容をそれなりに仕上げることができました

参加資格は、満たすことが、かろうじてできたわけです
 
 
◇それに対して、実践力(競技力)はどうかというと

質問の受け答えでは的外れなことを言い
他の発表者の発表には質問できず
懇親会ではコミュニケーション不足

実際の舞台で、競うレベルにないことが明白でした
 
 
この状況、かつて自分がした経験と、どこかで似ています
スタート1週目で集団からはなされて
レース中盤で周回遅れにされた、そんな経験と同じ

資格は満たしても、出場するだけでは意味がないんです
出場したレースで、競って、自分の結果を出すまでは
「選手」としての生存権がないんです

そんな時、自分の周りの酸素が薄く感じます
あのときの自分には、レース半分までの酸素しか許されていなかった
そして、それを克服するためには、練習するしかなかったのです

今回の大会発表で得た「試合経験」は、絶大なものがありました
きっと、学会前にはなかった要素を、持っていると思います
でも、以前にもまして、日々の精進の必要を思い知らされる結果になりました
参加することに意義はありますが、その意義は最初だけです
次の挑戦のために、今日からまた研究の再開です

スポーツも、研究も、
どんな経験も、最後は同じところにつながっていて
生きていくためには、いろんなことを総合するんだなと思います
果たして、文部科学省の言う「生きる力」と同じかは知りませんが
こういうところで実感したことを、
言葉に残していけたらいいなと思ってなんとなく文章をつづりました

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