顧みて

2005年11月13日
しばらくは、人を責めることをやめようと思います。

大学院に進学して
院生会を立ち上げて
勉強会を実施して

先輩を手伝い
後輩を育ててきた
そんな自負がありました。

決して、それら全てが錯覚だとは思わないけど
それを人に押し付けてきたことは確かです。

僕の見てきた夢や理想と
周りの皆が見ている夢や理想は
当たり前のように、違うわけですから。

誰かに後継になってほしいとか
どの水準にまで育ってほしいとか
相手に対して望むのは、押し付けに近いものがあります。





省みてみれば、自分自身も
別段何かができたわけではありません。

某大手私大を卒業したけれど
大学院の研究科とは別の専門を専攻していました。

学問よりもスポーツを頼りに生きていこうとしていたので
ほとんど勉強らしい勉強もせず、
研究方法も、勉強方法も今の大学院に入ってから吸収しました。

自転車の乗り方以外で
自分の能力を活かす場所はありません
それでも、認められたい気持ちは人並み以上です。

そんな自分が生きていくための思いが
院生会や研究活動に投影されているのだから
それらは多分に私的で、
誰のためのものでもなかったのかも知れません。





人に親切をすると、感謝されるでしょう。
でも、人に感謝されるために行う親切は、どこか歪んでいます。

行動の部分は全く一緒でも
動機の部分が正反対です。

前者は、相手のために
後者は、自分のために
「親切」とみなされる行動をするわけです。

でも、社会規範的に「親切」は正しいとされるものですから
どちらの行動も、ある程度の正当性が見出されるわけです。
本当は、正反対なのにね。

そのうち、行動することが正当になっていって
最初に自分が何をしたかったのか、だんだん分からなくなっていく
気がつくとだんだん歪んでいって
何かが失われる。

そんな経験って、ないですか?
そんなことを思い出しました。





何かを糾弾したり
自分を過信したりすることは
実は案外簡単なことで

正しいと信じていることが
よく考えると間違いだったことなんて
実は案外良くあることで

大事なのは、
気づいてそこから先を
どう進んでいくかなんじゃないかと
思うわけです。

だから、しばらくは
人を責めることをやめようと思います
自分にできることを見つめなおそうと思います





人間は社会に所属する生き物だから
自分の社会を望むと望まないと関係なく
その社会に従って生きていくものです

それを変えられる力を持つ人間は
実はそんなに多くありません。

変えられると錯覚する人間は
多分その何倍も居るんじゃないかと思います。

新しい社会に入っていった人間を
責めることは適切ではありません。

入っていった先の社会を
責めることも適切ではありません。

ただ、その思いだけは捨てないで
違和感だけは取っておくのがいいと思います。

決して中に居ただけでは
感じることのできない気持ちだから。

正当化をすることなく
心の中にしまっておきたいと思います。





換言すると
分際をわきまえて精進します。
簡単なことで、難しいことです。

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