違和感
2007年12月1日野球の日本代表試合を見ていて気がつきました
応援団が奏でる音楽に「さくら」や「富士山」が使われています。
これ、どうなんだろう。
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今まで野球の国際試合を見たことがなかったので
自分はまったく知らないのですが、こういう応援歌ってアリなんですか?
(WBCのときは使っていなかったように思うのですが)
これらは恐らく、「日本」の特色を出す意図で選んでいるのでしょうが
こういう選曲をされると、どうしても戦前の超国家主義体制が想起されます。
戦前は、そして一部は戦後でも、スポーツは国威発揚の一要素でした。
スポーツはもともとナショナリズムと融合しやすいもの。
自分たちの隣人が、友人が、すなわち同朋が闘っていると考えれば、自国を応援するのは人情です。
白熱すればするほど、力強い応援が大会を盛り上げ、選手を勇気付けるでしょう。
でも、ここには少しだけ、落とし穴に近い危うさが存在します。
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どのようなスポーツでも、ルールがあり、冷静な目で判定が行われます。
しかし、同朋意識で応援する気持ちは、合理的なルールとは異なる根源を持っています。
片方は理性、片方は感情。水と油ですね。
応援して、熱中して、愛国心が高揚すればするほど
冷静な理性の目よりも、仲間を想う感情が、場を支配していきます。
そして、冷静な目が完全に狂ってしまったとき、スポーツ中継は対戦相手を「敵」として見る装置に変わるでしょう。
ナショナリズム=悪ではありませんが、このような危険な傾向を帯びても歯止めが利かなくなるのが特徴の一つです。
というのも、映像、音楽、情報といったメディア媒体は、空気のような性質であるために、知らず知らずのうちに人間の意識に忍び込んでいくものだからです。
気がついたときには、無意識に相手を敵と見なす、悪循環が生まれます。
そういう意味では、応援の選曲だけでなく、対戦国を見下すような報道の仕方も目に余るように感じます。
このようなメディアは、特定の人間によって方向付けが可能なもの。特に権力にとっては強い武器です。
最近のスポーツには、このような危険に対する「恐怖」を感じることが、増えてきました。
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スポーツが好きで、曲がりなりにも研究をしている人間としては、偏狭な排他主義的思想が復活しないことを祈ります。
日本人と日本メディアが、紳士的で市民性に富んだ存在でありますように。
応援団が奏でる音楽に「さくら」や「富士山」が使われています。
これ、どうなんだろう。
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今まで野球の国際試合を見たことがなかったので
自分はまったく知らないのですが、こういう応援歌ってアリなんですか?
(WBCのときは使っていなかったように思うのですが)
これらは恐らく、「日本」の特色を出す意図で選んでいるのでしょうが
こういう選曲をされると、どうしても戦前の超国家主義体制が想起されます。
戦前は、そして一部は戦後でも、スポーツは国威発揚の一要素でした。
スポーツはもともとナショナリズムと融合しやすいもの。
自分たちの隣人が、友人が、すなわち同朋が闘っていると考えれば、自国を応援するのは人情です。
白熱すればするほど、力強い応援が大会を盛り上げ、選手を勇気付けるでしょう。
でも、ここには少しだけ、落とし穴に近い危うさが存在します。
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どのようなスポーツでも、ルールがあり、冷静な目で判定が行われます。
しかし、同朋意識で応援する気持ちは、合理的なルールとは異なる根源を持っています。
片方は理性、片方は感情。水と油ですね。
応援して、熱中して、愛国心が高揚すればするほど
冷静な理性の目よりも、仲間を想う感情が、場を支配していきます。
そして、冷静な目が完全に狂ってしまったとき、スポーツ中継は対戦相手を「敵」として見る装置に変わるでしょう。
ナショナリズム=悪ではありませんが、このような危険な傾向を帯びても歯止めが利かなくなるのが特徴の一つです。
というのも、映像、音楽、情報といったメディア媒体は、空気のような性質であるために、知らず知らずのうちに人間の意識に忍び込んでいくものだからです。
気がついたときには、無意識に相手を敵と見なす、悪循環が生まれます。
そういう意味では、応援の選曲だけでなく、対戦国を見下すような報道の仕方も目に余るように感じます。
このようなメディアは、特定の人間によって方向付けが可能なもの。特に権力にとっては強い武器です。
最近のスポーツには、このような危険に対する「恐怖」を感じることが、増えてきました。
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スポーツが好きで、曲がりなりにも研究をしている人間としては、偏狭な排他主義的思想が復活しないことを祈ります。
日本人と日本メディアが、紳士的で市民性に富んだ存在でありますように。
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